パリダカで日本人初の総合優勝を果たしました篠塚建次郎さん。
現在もレースに参戦しており、妻のひろ子さんと共にペンションを経営。
また、篠塚建次郎さんの息子は俳優で、俳優の三浦友和さんとも親戚です。
この記事では、ペンションの情報やかつてのラリードライバーでの活躍から現在の篠塚建次郎さんを調べてみました。
篠塚建次郎さんは妻と息子の3人でペンション経営
篠塚建次郎さんは、奥様と息子さんのご家族3人でペンション経営をされています。
そして、篠塚建次郎さんの奥様のひろ子さんは元女優で歌手の牧陽子さん。
息子さんは絲木建汰という芸名で俳優活動を行っています。
いわゆる有名人一家ですね。
ペンション経営を始めたのは、妻のひろ子さんで、芸能界引退後の1986年秋に山梨県の清里でオープンしました。
篠塚建次郎さんとひろ子さんがご結婚されたのが1987年で、篠塚建次郎さんがパリダカ参戦で活躍した頃です。
篠塚建次郎さんにとって、8年間のブランク後のパリダカ参戦での活躍、そして、結婚と一気弾けた感じが、個人的にはしますね。
ペンションの名称は、「La VERDURA(ら・べるでゅーら)」
ペンションの名称は、「La VERDURA(ら・べるでゅーら)」
「La VERDURE」はイタリア語で「野菜たち」という意味だそうです。
「La VERDURE」は、1986年にオープンしました。
しかし、2000年に篠塚建次郎さんがフランス・パリの三菱事業所に赴任を機に、長期休業に入ります。
その後、長期休業を経て、2013年にリニューアルオープンしました。
オープン当初は、まだ生まれていなかった息子の建太さんが、新たにマネージャーとして加わります。
篠塚建次郎さんがホスト、ひろ子さんがオーナー、建汰さんがマネージャーとして、
ご家族でペンション「La VERDURE」を盛り立てているご様子です。
そして、ペンションの各部屋には、野菜の名前が付いています。
トマト、キャベツ、さやえんどう、人参、じゃがいも、なす等の名前が、イタリア語でついており、どの部屋もとても優しく、可愛い感じがしています。
常に危険と隣り合わせのラリードライバーとして活躍していた篠塚建次郎さんを、常に支えていた妻のひろ子さん。
篠塚建次郎さんもペンションのホストとして、妻のひろ子さんを支えるあたりは、羨ましいですね!
また、息子さんがマネージャーとしてペンション経営に携わってくれるとは、「とても仲がいい家族」という言葉以上に一体感を感じます。
篠塚建次郎のプロフィール
篠塚 建次郎(しのづか けんじろう)
1948年11月20日生まれ、71歳(2020年現在)
身長:168.5cm
体重:58.5kg
現在でも日頃からトレーニングはしているそうです。
そして、ラリードライバーとして活躍していた頃の体型と現在の体型は、ほとんど変わっていないところがさすがですね。
出身地は、東京都大田区。
東海大学工学部工業化学科卒業。
三菱自動車の社員ドライバーとして活躍。
世界ラリー選手権 (WRC) とパリ・ダカール・ラリーでは日本人初の優勝を果たしました。
SUV人気の火付け役ともあって、現在のマイカーは、マツダCX-5と日産エルグランド。
やはり、セダンやスポーツカーではないんですね。
愛称は「シノケン」
子供の頃から「乗り物」大好き
子供の頃はより、乗馬〜自転車〜オートバイと色んな「乗り物」に接します。
その後、大学入学後の1967年に運転免許を取得します。
若い頃の篠塚建次郎さんは車には興味はありました。
しかし、ラリーという言葉も知らないばかりか、モータースポーツにも全然興味がなかったそうです。
そのラリーに参加するきっかけは、大学の友達からの誘いでナビゲーターとして乗車したことでした。
助手席でのラリー初参加でしたが、衝撃的な面白さを体験し、自分でも運転したくなったそうです。
そして、免許を取得して間もない1967年に大学1年生でラリーデビュー。
その後、ラリードライバーとしての活躍が有名になります。
大学3年の時に三菱自動車のラリーチーム「コルト・モータースポーツクラブ(CMSC)」にスカウトされます。
そして、当初はナビゲーターでしたが、大学4年生でドライバーとして参戦し
いきなり優勝します。
子供の頃の乗馬から始まり、レースではいきなり国内チャンピオンになるのは、やはり天性のものなんでしょうね。
篠塚建次郎は超一流のラリードライバー
大学卒業後の1971年にはそのドライバーとしての腕前を評価され、三菱自動車に入社しました。
しかし、三菱自動車ではプロドライバーとして契約はせず、ドライバー兼サラリーマンとしてスタートしたそうです。
本社勤務の宣伝部〜
販売会社でセールスマン〜
整備会社でメカニック〜
これらに従事しながら、
日本国内のラリーレースに出場します。
日本でたった一人のサラリーマンドライバーだったそうです。
平日はサラリーマン、週末はドライバーとして活躍だったので、睡眠不足のまま会社へ行くこともあったとか。
そんな中でも1971年、1972年には全日本ラリー選手権で2年連続シリーズチャンピオンを見事獲得します。
ちなみにそのレースで乗った車は初代ギャラン。
「コルトギャラン1600L」で、まだ70年代で排出ガス規制が厳しくなかった頃です。
排出ガス規制がゆるかった頃のガソリン車でのラリーレースって、おもしろっかったでしょうね。
国内トップドライバーに。しかし、
1974年、25歳でオーストラリアで開催されていたサザンクロス・ラリーに挑戦します。
そのレースでは、途中リタイヤだったものの大人と子供の差を見せつけられた結果だったそうです。
その後の戦績は悪くはなかったものの、海外ドライバーとの力の差を痛感したものでした。
そして、1976年のWRCサファリラリーで日本人初となる6位となり、「ライトニング・ケンジロー」という名で知られます。
そんな矢先、三菱自動車をはじめ国内自動車メーカーが、オイルショックや排気ガス規制のため1978年にモータースポーツ事業から撤退します。
それからの8年間、篠塚建次郎さんはラリーストとして、ほとんど活動することはできず、サラリーマンとして過ごします。
20代後半から30代後半まで、ドライバーとして体力や精神力などいちばん良い時にハンドルを握れなかったのは悔しかったでしょう。
そんな時期でもくさることなく、一流のサラリーマンを目指したとのことで、さすが団塊の世代は違うと思います。
いや、篠塚建次郎さんだかろこその根性でしょう。。。
しかし、当初からプロドライバーとしての契約だったとか考えると、最悪の暗黒の8年間になったかも知れませんね。
パリダカを完走できる日本人として
1985年、三菱パジェロはパリダカで総合優勝します。
しかし、ドライバーは外国人。
日本人として出場していたのは、今は亡き俳優の夏木陽介さんでしたが、完走とはならず、リタイヤしています。
そして、パリダカを完走できる日本人探しが始まります。
篠塚建次郎さんの名前があがったのは言うまでもありません。
8年が過ぎ、篠塚建次郎さんは37歳でした。
そして、夏木陽介さんと共に1986年のパリダカに参戦することになります。
まずは、様子見で参戦したパリダカでしたが、46位だったものの見事というか期待を裏切らず完走します。
8年のブランクなんか関係なしって感じですよね。
その翌年の1987年は夏木陽介さんが監督を務め、ドライバーは篠塚建次郎さん増岡浩さんからなる「チームシチズン夏木」として参戦しました。
そして、結果は見事総合3位を獲得します。
さらに、篠塚建次郎さん48歳、97年のダカール・ラリー(パリダカ改め)では参戦12年目にして、日本人初の総合優勝を達成します。
2000年には更にラリーに集中したいとの希望でフランス・パリに赴任します。
三菱自動車も太っ腹ですが、これまでのラリーの成績をかえりみれば当たり前といえば、当たり前ですね。
でも、いちプロドライバーとして、海外に拠点を移すとなると大きな経費がかかりますよね。
サラリーマンとして、しかもご自身希望の赴任ですので、サラリーマンドライバーを選択していた篠塚建次郎さんはなかなかしたたか者ですね。。。
還暦を過ぎても現役ドライバー
2002年1月のダカール・ラリーは、総合3位(優勝は増岡浩)で、それを最後に三菱自動車を退社しました。
篠塚建次郎さんはすでに53歳だったでした。
その頃は、サラリーマンとして三菱自動車に残るか、ラリーストとして現役を貫くことで退社するかの選択を強いられます。
結果は、やはりというか必然的に、ラリーストとして現役を貫くことで、フリードライバーとして55歳で日産と契約します。
55歳でフリードライバーとして契約できるなんて、スゴイことですね。
ラリースト・篠塚建次郎というネームバリューはそれほど大きいものだということが分かります。
そして、大きな怪我や体力の衰えなどを理由に引退予告などもしましたが、
2007年までダカールラリーに参戦を続けた篠塚建次郎さんは名実ともにワールドワイドなトップラリーストであることを証明しました。
もちろん、パリダカ以外の、いくつもの世界的ラリー選手権で総合優勝争いの前線で
走り続けたことは言うまでもありません。
還暦を過ぎた2010年代に入っても、国内外問わずクラシックカーラリーなどを
中心に現役活動を続けています。
篠塚建次郎さんは、いつまでも現役のラリードライバー -まとめ-
2008年には、母校の東海大学チャレンジセンターのソーラーカーチームから、特別アドバイザーに就任の要請がありそれを承諾します。
ここでも現役ドライバーにこだわる篠塚建次郎さん。
2009年、2010年、2011年とソーラーカーのドライバーとしてもハンドルを握り、優勝に大きく貢献しました。
2012年には、新たに「ソーラーカーチーム篠塚」を結成し、FIA公認のレースなどで、好成績を残しています。
また、2014年8月、下地島空港(沖縄県宮古島市)の滑走路にて、ギネス公式認定のソーラーカー世界最高速記録を更新します。
認定記録は91.332km/h。
かつては、排ガスを撒き散らしながら(言い方はとても悪いですが)、荒れた道無き道を走行していた篠塚建次郎さん。
しかし、今ではソーラーカーとういう超エコで環境に優しい乗り物でも、本来の負けん気の強さで好成績を残すところは、やはりさすがですね!
最高齢現役ドライバーへ!
篠塚建次郎さんのあるインタビュー記事を読みました。
勝負がかかると楽しい
ラリーストにしても、サラリーマンにしても篠塚建次郎さんにとっては、勝負に負けることができないという根性から、現在も現役にこだわっているのでしょう。
そんな篠塚建次郎さんも現在では、パリダカで総合優勝を狙うような走りはやめているようです。
しかし、アジアクロスカントリーラリー、ーラーカーレースなど、現在でも年5.6回はレースに参戦しているそうです
また、特に病気もなく、日々のトレーニングは欠かさず行っており、ここでも現役にこだわる篠塚建次郎さんがかい間見られます。
(もちろん、ペンションのホストを先させてのトレーニングだそうですがw)
走ることを辞めれば篠塚ではなくなる
これは、妻・ひろ子さんのあるインタビューでの発言です。
これまで紆余曲折があったサラリーマンドライバーで、レース中に大きな怪我などもありましが、現在も現役ドライバーとして活躍できることは、
妻のひろ子さんのご理解なくしてはなかったでしょうね。
いちファンとして達成してほしいのは、最高齢現役ドライバーです!
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